土の風鈴
少し用があって外に出たものの数分前クローゼットの前にいた自分を軽く恨んだ。外の土を踏んだ瞬間のことだった。 ……蒸し暑い。 春の残滓を感じることもなくなった初夏の頃である。 日差しから逃れるように玄関を通りぬけると、部屋は優しげな音色で満たされていた。ドアを閉めてふと窓を見ると風鈴がぶら下がっている。なるほど、音源はこれであるらしい。風に揺られるがままになっているそれは、よく見かける透明ではなくいっそ緑がかって見えるような渋い焦茶と鈍い光沢を持っていた。 そんな、言ってしまうなら地味な風鈴がここにあるゆえんなどぼくは知らないのだが、思うに今しがたぼくの帰還に気づいたらしい同居人の仕業なのだろう。向こうから静かな足音が聞こえる。 「あれ、帰ってたんだ。一言くれればよかったのに。」 残念そうな様子に少し罪悪感を感じる。 「いやついさっき帰ったんだ。このところ暑くなってきて困るね。まったく、服を選ぶのがおっくうな時期だよ。ところで、」 ちら、と風鈴に目をやるとつられて視線を動かした彼もまたこれからの話題を察したらしい。 「買ったの?風鈴、土の。」 「うん。近くで露店やってて、音がいいでしょ?なんか、こう……染みる感じ?」 彼の言ってることは時々わからない。 「へえ、でもぼくは風鈴といったらやっぱり硝子だと思うけどな。なんかもう見た目が涼しいし。」 「まあ、たしかに。」 「音もねぇ、土よりは涼しげに聞こえるしなぁ。金属製のものもあるってきいたんだけど、どんな音が出るんだろ。」 「そうだね……」 彼はそう呟いたきり少し考え込むように黙り込んだ。目線の先には例の風鈴がある。 「うん、たしかに、そうだなぁ……言われてみれば。僕、間違ったみたい。」 「え、そう?別に土のも悪くないと思うけど。」 「うん。だからさ、よかったらでいいんだけど……露店に行ってさもう一つ見繕ってきてくれる?場所教えるから。」 少し首をかしげて聞いてくる。それに伴って長い髪の端が揺れて、ぼくの目はそれを追う。いつもの癖。 外に出るやいなやむせ返るような新緑の匂いと湿気を多分に含んだ空気が身を包む。何度も繰り返しほとほとうんざりなことだ。救いはさっきよりも風が少しだけ強くなったことだろうか……髪が暇無く揺れている。教えてもらった場所はそう遠くなく、道のりも至極単純なものだ。迷子になんて絶対なりっこない、のだが、なんとも釈然としない。……懸念?何に対して? 草を蹴り、まとわり付くすべてを散らすように足を動かす。よほど歩くことに集中していたらしく視界は輪郭を失っていて、気づけば危うく目的地を通りすぎるところだった。 そこは露店と言うだけのことはあるのだろうか、ほとんど道ばたのようなところだった。一本の大木の幹にゆるく竹格子のようなものが立てかけてあり、そこには風鈴が鈴なりに掛かっている。弱々しい風に吹かれて各々が思うがままに体を揺らしているようだった。大木といえどもこの日差しをすべて遮ることはできないらしく、日光に射抜かれた硝子は草もまばらな土の上に独特な影を落としている。その極彩色で煌めく影にある種の清涼感を覚えいつまでも見てられるなぁ、なんてことを思った。竹格子の傍には不用心なことにただ木の椅子があるだけで、店の者と思われる人物などは見当たらない。恐らく席を外しているだけなのだろう。それにしてもこれでは風鈴の一つや二つ、盗られたくらいでは気づきもしないだろうに。それでも彼らはたださも知らぬ風にちりん、ちりんと可愛らしく華やかな音を鳴らすだけ。穏やかな昼下がりである。そう思われたとき、 ――一陣、風が駆けた。 あまりの勢いに思わず身をすくめる。多少生暖かさを感じさせる突風が体の表面から熱を奪い、数十分前の暑さが嘘のようだ。目の前では風鈴が激しく揺られているが、発している音にさっきまでの可憐さの面影はなくじりり、じりりり、じり、と下品なもので、昔どこかで聞いたサイレンを彷彿とさせる。何ともけたたましい。地面はというと、あらゆる方向からの光が混ざり合って、ぐちゃぐちゃになって、それはもうひどい有様であった。 そろそろ髪が鬱陶しくなってきたのでかき上げようと頭に手をあてた。瞬間、ごう、と音を立ててとりわけ強い風が吹く。いよいよ音は騒々しくなり、金属棒は硝子を激しく打ち付ける。甲高い悲鳴を聞いているようで耳が痛い。そして互いを抉るように擦れ、 ギッ 酷い音だった。本当に。こんなことあるかってくらい不快で反射から間の抜けた声をあげてしまった。もっとも、このとんちきな音がぼくの喉から出たものだと気づいたのも随分後のことだったのだが。もうこりごりだ、一刻も早くこの場から立ち去りたい。その一心で一連の出来事に気圧されなかったらしい足がよく動くのをいいことにそそくさと来た道を引き返す。後ろで何か物音がしたような気もしたが、多分帰ってきた店主の足音だとか、ぼくには関係のないことだっただろう。 例の音は今でも耳の奥に張り付いているらしく、時たま思い出したかのように鼓膜を震わせてくるのでたまったものではない。 とぼとぼとした足取りで帰路につく。いつのまにか風は止んでいて髪と髪の間に潜んでいる熱は行き場をなくしていた。頬をつたった汗が地面に吸い込まれていく。草の影からバッタが跳ね、空には厚い綿のような雲が点在している。そんなぎらついた風景とは裏腹に、どこか陰鬱とした意識は漠然とした思考と近いところにあるらしく、その水面から何かをすくい上げた。 「あれ、帰ってたんだ。一言くれればよかったのに。」 記憶。それも先ほど彼と交わした会話の。はっと目の前を横切ろうとする尾をひっつかまえて、何度も何度も頭の中で反芻する。そうしなければならない、とぼくを突き動かすのはほとんど衝動であった。頭蓋骨の中でひたすらわんわんと響く声のかけらを拾って、その都度他のかけらと組み合わせてみて。繰り返すうちに少しずつ視界が明るくなって、それで、 「でもぼくは風鈴といったらやっぱり硝子だと思うけどな。」 「土よりは涼しげに聞こえるしなぁ。」 懸念。 「僕、間違ったみたい。」 ……ともすると、ぼくはなかなかやらかしてしまったのではあるまいか? 足が止まる。少し考えて、来た道とも行く道ともちがう方向に足を向ける。このままではまだ帰れない。 玄関の扉は思ったより軽く、反動が腕を伝わって肩に響く。気分がいくらかましになったからであろうか。少し声を張って呼びかける。 「帰ったよ。」 「あ、おかえり。」 件の人物は何も気にしてない風で、微笑を浮かべながらこちらを向いて座っていた。本当に気にしていないのだろう、彼は優しい。いつもこちらが知らずに紛れ込ませてしまった針をいともたやすくいなしてしまう。だからぼくはついそこにあぐらをかいてしまうのだが、生憎彼の優しさには満足を覚えて既に久しい。すると今度はいつか見捨てられるのだという不安がつきまとうようになる。後は断罪を待つだけだ。 「なんか、疲れてる?」 「まあね……」 彼は椅子から立ち上がり、少し離れた場所に立った。自然で流れるような、いつもだったら何も考えずについ座り込んでしまうような仕草。礼を言ってゆっくりと歩み寄り、おもむろに腰掛ける。 「これ、付け替えるのは僕がやるから。」 その目には何の感情も宿っていない。何もないのか、はたまた、押さえつけているのか。本当のことはわからない。追求するのをやめたのも昔のことだ。 手を差し出されたので指に掛かっていた袋から紙製の箱を取り出して手渡す。その直方体はすっぽりと彼の手に収まった。 「……え?」 箱の派手な印刷を見て、彼は目を見開いた。驚いているのだろう、自分で言うのもなんだけど正直無理ないと思う。 「何これ?」 「オレンジジュースだけど?」 「いや、風鈴は?」 彼の問いに答えようとして口を少しだけ開いたものの、喉は閉じてしまっていて、何の意味も無いただの空気の塊が漏れただけだった。沈黙が我が物顔で部屋中にのさばっており、息苦しさを感じる。時間が経てば経つほど何を言えばいいのかわからない。何しろその脆さをもって他人の心の機敏を窺う性質の彼である。もちろんぼくが彼の気遣いに罪悪感を持っていることも知られてはならず、下手なことは言えない。…ぼくはこういうことが本当に苦手なんだ。ああ、また駄目だ。結局、静寂を破ったのは彼であった。 「紙パックは珍しいね、いつもは瓶ジュースを買ってくるのに。」 もうラムネも並ぶ頃だよなぁ、と呟く彼の隣で心臓が跳ねた。 「うーん、まあ気分だったからかな。あ、いや、そういえば前飲んだとき美味しかったなって思い出したんだ。」 ……嘘。本当は憚られたから。 「じゃあきっと美味しんだ、楽しみだな。そういえばそろそろフィナンシェが焼ける時間だったような……」 「うん……」 彼は背を向けて歩き出した。風鈴のことは彼の中で何とかそれっぽい理由も見つかって、もう済んだことになったらしい。それがどんなものであっても、僕には有り難かった。さっきの会話でもしや外であったことやぼくが思ったことが、彼には全ておみとおしなのではないかと考えたりもしたが、まさかそんなことはないだろう。長い髪が揺れながら遠ざかっていく。何か、何か……何でもいいから、言わなければ。ただただそう思った。このとき、空回りしてもう熱暴走でも起こしているのではないかというほどの思考だけがぼくの脳内を支配していて、もうおかしくなりそうだった。言わなければ何があるのか、なんて考える余裕なんてあるわけがない。 突如、りん、という音が響く。冬のよく晴れた空を思わせるが、ほどよい湿り気をも感じさせる音色。また、風が吹き始めたのか、と思ったところで、さっきまでのヒート寸前の思考はあっさり冷やされてしまったことに気づいた。少し顔をあげると、自重からか控えめな揺れ方をしていて、どこか受け身な印象を抱く陶器の身体が目に入る。それで、本当にどうしようもなくなって、まだいろんな感情が絡まり合っていて何もわからないのに繭の中から滑り落ちた言葉はただ一つで。 「……何たって、ぼくは君のことが好きだからなって。」 彼の肩が少し跳ねて、足が止まった。ぼくでさえ自分が何を言っているのかよくわからないし、そもそも、ここまで普通に近い言葉が出てくるとも思っていなかったのだ。この言葉一つで彼がぼくの考えていることをどれだけ理解できたかというと、それは一割にも満たないだろう。でもそんなことはどうでもよくて、ただ呆然と、次に彼はどんな表情でこっちに顔を向け、何を言うんだろうか、と考えていた。そうしているとまた、澄んだ音が響いて体に染みるような心地よさがぼくを満たしていく。……染みる?何か少し引っかかったが、次にはもう、こいつはぼくに同情しているのだろうが、なかなかどうして悪くないな、なんてことを考えていた。見えるもの、聞こえるもの、感じるもの全てが時の流れを緩慢なものに変えてゆく。 秋の足音すら聞こえることのない初夏の頃である。 優しげな音色を含んだ弱々しい風はぼくの頬をゆるやかになでて、部屋の奥にもぐりこんでいった。 了